私と両親、幼児期

私を語るには両親の存在が欠かせない。まず、両親を紹介したい。
父は地元から少し離れた都市の出身、母は隣県の田舎の出身。
父も母も現在暮らす地元で就職し、そして出会った。
両親が誕生したのは戦前戦後で分かれているが、生活環境が全く異なっていたようだ。
戦前に生まれた父は裕福ではないにしろ、現代につながる割りと恵まれたほうだった。対して母は戦後の生まれで父と年齢差があるもののまるで昔から出てきた人である。都会と田舎では当時は相当生活レベルに差があったのかもしれない。
父は大学まで卒業した一方、母は家庭の事情で高校も満足に行けなかったようだ。東京で住み込みで働いた後、我が地元の百貨店で働いていた時に父と出会ったらしい。完全な恋愛とはいえないがお見合いでもないので恋愛結婚ということになる。まだ、恋愛より見合い結婚のほうが主流の時代だった。
母は若くして結婚したが妊娠の兆候が見られず、私が生まれるまでに年数を要した。子供を諦めることの出来ない両親は養子の検討もしていたそうである。
そんな中での私は待望の第一子であった。しかしかしながら両親は女子を望んでいたこともあり、女装とはいかないまでも髪型はおかっぱで、都会的なお坊ちゃま風を意識した格好をさせられた。3歳の頃、念願のマイホーム購入で転居。そして、隣家には同級生がいた。そのことは今後、私の人生と大きく関わっていくこととなる。子供の頃、ゼンリンの町内地図を見るとやたらと小さかったのが惨めでコンプレックスだった。そして、今後訪れる人間関係や学校生活も満たされなかったこともあり、家を馬鹿にしていて有り難みを感じなかったが、今となってはそれを恥じており、現在の私では家を持つことは到底出来ないので両親を立派だと思っている。
父親は典型的な昭和の男の趣味を地でいくような感じだった。原因は不明だが信頼関係をなくした何かがあるはずだ。物心ついたときから両親の仲は良好ではなかった。女性問題に関しては知らないが、酒とギャンブルはかなり記憶にある。そして、父親の実家との関係も結婚当初は良くなくて、父の兄嫁との間に差別があったらしい。そういった不満の蓄積をぶつけていたのだろうか?母親のヒステリックにも付き合うこととなった。現代ならば虐待に当たるらしいが、久しく一般的な当時の教育だと思っていた。幼児期の私はうるさいくらいに良くしゃべった上に落ち着きがなかったのでそんなところを怒られていたのかもしれない。スーパーで良く迷子になっていたのはそんな落ち着きのなさからであろう?しかしながら、そんな子供らしさといえるような部分も否定され、抑圧された気分で過ごしていた。感情を抑えることが多くなった結果、幼くして陰湿さと腹黒さを身に付いてしまったといえるかもしれない。私としても親に気を遣い、素直に良い方向に進めば良かったが、よい子でなかったのが申し訳ない。それでもネグレクトはなく、むしろ、過保護に近いくらいだったと自分では思っている。過保護のエピソードではないが、七五三でしっかり正装を着ていた写真や、動物園に連れていってくれた写真もあった。乳幼児期は病気ばかりしていたらしい。病院に行くと注射が怖くて泣き叫んでいて、看護婦さんに取り押さえられて何とか尻に打たれていた。保育園に通うのも嫌で泣いてばかりいて、3年保育のうち、半分ほどしか出席していないと思う。しかし、年中の後半に妹が誕生し、意識が変わったのか?欠席が少なくなった。

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