日曜日は、家族で近くのスーパーへ出かけたり、親類の家を訪ねたりするのが、いつもの習慣だった。親類の家は元々父の実家で、祖父母が亡くなった後は父の兄が継いでいた。
祖母の「兄弟仲良くしてほしい」という遺言を両親が律儀に守り、ほぼ毎週のように訪問していたのだと思う。今振り返ると、相手にとっては迷惑だった日もあったかもしれないし、そこまで頻繁でなくても良かったのでは、と感じることもある。もう少し家族の時間や地元での関係を大事にしてもよかったのでは、と。
伯父は熱狂的なジャイアンツファンで、勝てば上機嫌で野球を教えてくれるが、負けると近寄り難いほど不機嫌になる人だった。その機嫌の浮き沈みも含めて、私の幼い日の記憶の一部になっている。
同級生の従兄弟が二人いて、彼らは都会的で、学校では聞けないような新しい遊びや流行をいつも教えてくれた。私にとって、少し憧れで、どこか誇らしい存在でもあった。
ただ、訪問時に彼らの友達が家に集まっている時だけは話が別だった。急に自分が縮こまり、どう会話に入っていいのか分からなくなる。話しかける勇気もなく、結局は遠くの部屋から様子をうかがうだけ。「仲間に入れて」と心のどこかで思いながらも、その一歩を踏み出す自信がなかった。
あの頃の私は、他人の輪の中に入ることにとても臆病だったのだ。
小学生時代の思い出に戻るが、担任の男性教諭からの評価は悪くなかったように思う。学芸会では主役級の役に抜擢され、学校紹介のテレビ番組でもクラス代表として出演した。今思えば、あれらは人生を通じても数少ない、集団の中での「成功体験」だった。
そのような大舞台で常にペアを組んでいた女子に秘かに好意を持たれていた。初恋の話は別の章で語るつもりだが、当時の自分は内気だったため、嬉しさよりも気恥ずかしさが勝っていたように思う。
そんな自分に、人前に立つ経験や小さな自信を与えてくれた担任の先生には、今でも感謝している。敬意を込めて、その先生を少し紹介したい。当時すでに定年間際の58歳ほどで、子どもながらに「おじいちゃん先生」という印象が強かった。後に聞いた話では、学校から最寄駅まで自転車で通い、そのあと電車で片道70キロほどの道のりを通勤していたという。40年以上前のことなので、もし存命なら100歳を超えている計算になる。
サラリーマンとして、平教員のまま定年を迎えたという事実を、50歳の私は改めて思い返す。出世というものをどう受け止めていたのだろうか。現場で学年を問わず子どもたちと向き合い、命を預かる重責を背負う日々は、どれほど大変だったのか。長きにわたる教員生活を全うした充実感に包まれていたのか、それとも静かに日々を振り返る穏やかな時間に浸っていたのか。家族構成はどうなっていたのか、当時は全く関心もなかった私生活も気になってしまう。とりわけ、キャリアの最晩年を私の母校で過ごし、私のクラスを受け持ったことには、どんな思いがあったのだろう。先生にとっては一生徒にすぎない私だが、その出会いは、数十年にわたる教育人生の中でのひと欠片に過ぎないにせよ、私にとってはかけがえのない経験であり、クラス全員のその後の人生の道筋に微かに影響を与えたに違いない。50歳の私が小学一年生を振り返っている—我ながら滑稽だが、昭和末期のあの頃、子どもの一日も一年も、今とは比べものにならないほど長く深かった。また、その当時の先生より私はまだ若い。自分もまだ力を振り絞れるのではないか?そんな希望も感じさせてくれる。
──ブログを書きながら、社会人となった今の私は、ふとその温かくも重みある瞬間を、静かに胸に刻むのである。
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私と小学生時代②
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