記事を書き上げた後、学級写真を見た。唯一の白黒写真がよりノスタルジックな気分にさせられる。前回いつみたのか記憶にないくらいだが、この白黒写真を見るたびに私は昭和の男であることを実感させられ、ささやかな誇りを感じている。
転校していった生徒も含めて全員の顔と名前は一致するが、印象に残る人とそうでない人がいるのは仕方がない。
担任の先生は50歳になろうとする現在の私が見てもおじいちゃんである。隣に座っている校長先生も同様におじいちゃんであった。いかにも昭和初期を生きた人だ。しかし、スーツの着こなしは現代人よりしっかりしていて紳士であった。今から10年後、私は両教師とほぼ同年になるが、どのように変化しているのだろうか。見た目は現代人の私の方がきっと若いと思うが、この両教師のように健康的な紳士でありたいと思う。
私と彼女の顔を見る。私はおかっぱ頭に光が眩しいのか目を細めて坂本龍馬のようだ。彼女は凛として整った顔立ちを保ちながら微笑んでいる。やはり私が先の記事で菩薩と形容しただけのことはある。彼女の微笑みは今の私にとってもどこか救いを感じる。とにかく、私と彼女が同じ世界にいた事実を証明する唯一の写真だ。なんか自分であって自分ではないようか気がして懐かしさというより遠い過去の夢幻だ。しかし、これは事実なのである。彼女が成長してどんな顔になったのかは非現実過ぎて想像することもできないし、する必要もない。私の中で彼女の容姿は永遠にこの写真から変わることはない。写真を見ながらこのクラスという小さな世界の中で一生終えることが出来たのなら、私と彼女は結婚していたのだろうか?なんてこれまた非現実なことも考えてしまうが、いや、そんなことはない。同じクラスのままでもその中で変化はあるはずだし、きっと成長過程の中で私のメッキは剥がれてしまい、ライバルとの競争もあったはずた。
そこは2年生から別のクラスで良かったかもしれない。同じクラスになっていたらその残酷な現実を知ることとなったかもしれない。また、このようにブログ記事にすることもなかったかもしれないのだ。彼女との関係が未知で終わったからこその現実が今存在している。ただ、彼女はなぜ私に好意を持ってくれたのだろうか?担任が特別扱いしてくれた「ポイント」はあったとはいえ、引っ込み思案の片鱗は居心地の良かったこのクラスにおいてもかなりあったと実感している。それを踏まえて思ってくれたのなら、私は飾らずに自然体で良いのかなと思ってしまう。これは、私の待つ恋愛のヒントかもしれない。私はクラスという限られた枠組みの中で何とか存在を示すのが精一杯だったが、彼女はすでにその狭い環境に留まるようなレベルではなく、学年という舞台にステップアップするための準備期間であったような気がする。彼女も私と同じように古くなったアルバムを開いて小学校入学時のこの写真を目にすることはあるだろうか。唯一の白黒写真なのできっと目立つはずだ。まず本人の顔をチェックして懐かしむだろう。次に担任、そしてクラスメイト。その時に私に目が止まるだろうか。時を経て、私と彼女の接点があるとすればそれだけだ。
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